(33)日本は「供与」し民生を安定・向上させた 「南綿北羊」の農業振興政策

 下記は、2018.8.25 付の【海峡を越えて 「朝のくに」ものがたり】です。

                        記

 「文化政治」の朝鮮総督斎藤実(まこと)の後任として第6代総督(昭和6〜11年)に就任した宇垣一成(うがき・かずしげ)(1868〜1956年)が進めた朝鮮の農業振興策に「南綿北羊」がある。

 南部では、綿花の栽培を促進。北部では、緬羊(めんよう)(家畜用の羊)を育て、付加価値の高い農、畜産品である綿糸・羊毛の生産拡大を図る政策だ。

 古来、朝鮮で栽培が行われていた綿花は、全羅南道慶尚南道など南部6つの道を中心に大増産計画が進められたが、緬羊の飼育については、ほとんど実績がない(昭和8年の全朝鮮での緬羊の数は2700頭弱)。このため、緬羊の一大生産地であるオーストラリアから船便で輸入を図るプランが立てられた。

 緬羊を乗せた貨物船が、遠路はるばる太平洋を北上し、朝鮮東岸の雄基、清津、元山などの港に陸揚げ。鉄道で、北部・咸鏡北道の国策会社・東洋拓殖会社牧場などへ運んで飼育し、羊毛を刈る…。

 この朝鮮向けの緬羊の輸出を扱ったのは日豪貿易に実績があった総合商社の兼松だった。第1船の「朝陽丸」が約2700頭の緬羊を積んで豪シドニーを出発したのは、昭和9年4月24日のことである。

 初めてのことだけに、万全を期したのであろう。「朝陽丸」には当時、兼松の豪・現地法人で羊毛担当の責任者だった曽野近一(きんいち)(1899〜1943年)が乗り込み、朝鮮まで付き添っている。

 品種は、羊毛の質こそ中程度ながら適応力に優れたコリデール種。近一の長男で、やはり兼松OBの曽野豪夫(たけお)(84)が書いた『写真で語る日豪史 昭和戦前編』によれば、苦労が多かったらしい。赤道直下を行く船のデッキで熱気にやられ、死んでしまう緬羊もいた。第2船以降は航海時の気候を考慮したり、デッキによしずを張ったりする工夫を重ねたという。

 こうしてスタートしたオーストラリアから朝鮮への緬羊の輸出は、順調に回を重ね、対英米戦争が始まった昭和16年に中断を余儀なくされるまで約4万5千頭が太平洋を越えてゆく。

 朝鮮で総督の宇垣に面会した近一は、こう力説したという。《(朝鮮)各地での羊牧場経営が衣料及(およ)び食料の両面から民生の安定と向上に大いに役立つ》(『写真で語る日豪史 昭和戦前編』)と。

 ◆収奪するものがない

 2年前、韓国のメディアは、この「南綿北羊」について、日本統治時代の記録映画『北鮮の羊は語る』(昭和9年)などの映像資料が見つかったというニュースを一斉に報じた。

 映画には、曽野近一が同行したルートそのままに、オーストラリアから船で輸入された緬羊が荷揚げされ牧場で飼育されたこと、毛を刈って生地を織る様子などが記録されていた。「羊毛輸入のために、毎年2億円が使われる。輸入代替のために努力しよう」という字幕もあったという。

 ただし、韓国メディアのトーンは、もちろん(?)ネガティブだ。内地(日本)でもほとんど羊毛の生産ができず、多くを輸入に頼るしかない。だから、朝鮮の安い労働力を利用して日本製造業の原料供給地にする目的で、南では綿花を、北では羊を育てるようにした…つまり、何でもかんでも“日帝による収奪”にしてしまうのだが、果たして本当にそうか?

 日韓併合(明治43年)以前の朝鮮には産業らしい産業もなかった。儒教の思想によって商工業は蔑視され、農業では森を焼いて肥料にする「火田民」(焼き畑農業)という前近代的な農法が多くみられた。つまり、「収奪」したくともするものがない。日本がやったのは「供与」して「育成」することだった。内地の一般会計からも巨額の資金を回し、優秀な人材と技術を供給し、せっせと近代化を進めたのである。

 第1次産業分野では、はげ山に植林をし、灌漑(かんがい)設備をつくり、干拓や開墾で耕地を増やす。東洋一の化学肥料工場を建て収量を上げる。とりわけ、米は「朝鮮産米増殖計画」を定めて増産に努め、大正10年の年産額は約1430万石(併合当時の約40%増)、品質も向上した。朝鮮の農業は効率化、近代化され、あらゆる指標が飛躍的に伸びたのである。

 そこに、朝鮮を兵站(へいたん)基地とする国策がなかったとは言わない。だが、日韓併合前のカネ・コネの政治腐敗によって、それこそ朝鮮の官吏らに「収奪」されていた農民の暮らしははるかに改善された。その証拠に日本統治時代の間に農民が約8割を占める朝鮮の人口は急増(2倍弱)している。

 人口増には、英国の女流旅行作家の『朝鮮紀行』で“中国の都市に次ぎ世界で2番目にひどい”と酷評されていた街や住民の「衛生環境改善」も貢献している。近代医学の医師などほとんどおらず、感染症の蔓延(まんえん)にたびたび苦しんでいた朝鮮全土に病院を建て、各都市に上水道を設けたのも日本である。例を挙げればキリがない。

 ◆父の「思い出の背広」

 朝鮮の牧場で育った初めての豪州緬羊の羊毛は、清津で入札が行われ、4社が応札したが、緬羊の輸出を請け負った兼松がメンツにかけて落札した。

 『写真で語る日豪史…』によれば、その羊毛は内地で紡出され、茶、緑など4系統の毛織物となって、朝鮮総督らに贈られたという。第1船に同乗したシドニーの曽野近一にも、その生地が送られてきた。

 後に、商社マンとなった長男の豪夫は、その生地で仕立てた背広を着て、世界を駆け回った。平成2年に豪州兼松が100周年を迎えたときの記念式典にもその背広を着ていったという。豪夫はいう。「海軍の軍属として父が戦死(昭和18年)したときはまだ国民学校(小学)生でした。父の思い出があまりない私にとって、この背広は本当に大切なもので、“長生き”してくれましたよ」

 “海峡を越えて”朝鮮の近代化に貢献したのは人だけではなかった。

=敬称略、土曜掲載(文化部編集委員 喜多由浩)

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